あの頃の激情も何もかも薄れてしまって、すっかり健康になった。ご飯が食べられなくなったなんて、あの時が最後だ。わたしがいなくてもきみは生きていけているし、わたしもきみのことを思い出さずに生きていけている。あっけない。まあ、こんなあっけなく終わらせたのも自分なんだから、文句を言える立場ではないとわかっているけれど。きっときみもわたしも、今お互いに向ける感情は無だろうから一周回って仲良くできるのかもしれないな。きみに未練があるというよりは、きみと過ごした時間に未練がある。だって、すごく楽しかった。とても大切だった。大切だ、今でも。懐かしく思い出しては、少しの悼みと共に頭から追い払う。けれどもあの時はそうとしかできなかった。それだけが重要で、必死だった。A太郎は「もう二度と会わない」と言えたけれど、わたしはきっと言えないのだろう。二度と会いたくないひとが増えていくこと。その風味、まさに絶佳だ、と思い出すこと。

 

あの時の、のめり込みと共依存ぐあいを考えると新しいジャンルにハマる熱量をきみに向けていたのかもしれないと思うようになった。ツイッターの更新を逐一ブラウザで張って、ラインの通知が来れば手が震えて。それが異常だったと今なら思う。あれはなんだったんだろう。恋のようなもの、もしくは強迫観念?それらを失って凪いでいる、ことに正も負の感情もない。それでもまだ、いつか会いたいなって思うよ。いつか、あと十年後ぐらいかな。お互いに生きていたらさ。

 

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という下書きを見つけて、また供養するか、という気持ちになった。別れた後は自分の感情を書いて、寝かせて、追記して、整理するしかないのかもしれない。ずっと同じことを繰り返している。

 

今は2023年で、わたしは東京に住んでいて、一人暮らしをして、きちんと職にも就いている。なんと。あの頃からは考えられないところまで来てしまった。かつての自分に伝えても信じてくれないだろうけど、でも、どこかでやりかねないとも思いそうだ。未来はなんとかなると無根拠に思っている、今でもきっと。

 

 

と、続きを書くために昔のツイッター見返してたら嫌になってきた。あの頃、ほんとに楽しかったな。わたしは結局愛されたい人間だから、好意を明確に示した状況で、ある程度振り回してくれるような癖ド真ん中の相手のことを好きにならない訳がないんだよ。好きって言われたら好きになっちゃうよ、チョロいからさあ。今思い返してもあの子の言動を突き放せたと思えない。どうしたって参ってしまう。もう自分のことのようにわかる(自分のことなので)。

 

あの子との楽しかった記憶のピークは友達だった頃だったから、恋と名付けなければそのままでいれたのかもしれないなんて思って、それでも恋じゃなかったと言い切れもしなくて。いまだにわたしはあなたのことを恋人とも親友とも呼べずに、二人称代名詞か名前で呼ぶのがしっくりきてしまう。当時からそうだったし、終わってしまった今でも結論がついていないのが、みっともない。自分のこういうところが、おそらくあの子は嫌いだったろうと思う。でも、いやだからこそ、あの子が「元恋人」と呼称した時に、全部報われた、と思ってしまった。

別れ話をしたのはきみで、きみの話の中では100わたしが悪いことになっていて、でもわたしはお互い50:50で悪かったと思っていて、けれどやっぱり嫌いきれずにいて、それでもこれ以上続けられずにいて。結果どうしようもなくなっていた。友達から付き合って別れたけれど、結局わたしの中ではどちらとも言えない特別枠の人だったから、そんなあなたから見てわたしを示す言葉が元恋人だったことが、本当に嬉しくなってしまった。こんなことで嬉しくなるべきじゃないのはわかってるんだけど。思い出してくれたこと、忘れられていなかったこと、その言葉だったこと。だったら、もう、わたしたちの結末がこれでもいいかと思った。

 

後々境界性パーソナリティ障害の例を見るとあの子に当てはまる面が多々あった。その多くは、初対面はまるで理想像のように人懐っこく振る舞って魅了するが、徐々に相手を振り回すようになるというもので、別れ話も多分脱価値化と呼ばれる現象に当てはまるのだと思う。

ただわたしは、対境界性パーソナリティ障害の人へよく言われてるように、それを「被害」とは呼べない。実際あの子に出会ったことで、良くも悪くも人生は一変した。とっても楽しいことはたくさんあったし、同時に、人生全部ぐちゃぐちゃにもなった。でも今の職だって、多分きみに会っていなければ就かなかった。こうして今楽しく暮らすこともできてなかったかもしれない。だから、側から見た状況は「被害」かもしれないけれど、わたしにとってのきみは「よいもの」だった。優しいのは嘘でも優しくされたのは嘘じゃない、を唱えてる身としてはこうして都合よく生きていくしかないなとも思う。でもまあね、国は傾いてこそだし、人生はめちゃくちゃになってこそだよ。だから認めて、諦めて、許すよ。きみに出会って別れたことについて観念するよ。

 

(と言いつつ別日にツイッターを見たらまた元恋人と言及されていて普通に嬉しくなってしまったので終わりです。でもそれを見た感じ100悪いのはきみ自身だと思ってるみたいだった。そんなことないのに。というかどこまでいってもわたしたち似たもの同士で面白くもなってしまった。趣味は合わないくせにこんなところばかり似ているね。そういうの、懐かしいね)

 

わたしは、愛されたがりで、唯一無二だと思われたくて、忘れられたくない人間なんだと、やっと気付いた。そしてこの性質はどれも受動的なものであり、それに対して恥じていることも気付いた。創作の好みや傾向は、製作者の願望や核である。わたしは唯一無二の二人が好きで、どうしようもない感情を一生抱えて生きる人間が好きで、強い執着と祈りが好きだ。きっと、そこから逃れられない。

だから、わたしは誰かをちゃんと愛したい。大切にしたい。大切にしたいと思える人に出会いたい。もらうことだけを期待して生きていくのをやめたい。能動的に、自分から、誰かを好きになりたい。そういう人生になりたい。

 

あの頃の、自分の心臓まるごと掴み出して俎上に乗せるような独白を、もう一度したくてたまらないんだきっと。愛されたい、愛したい、寄りかかりたい、寄りかかられたい。それらの願望が実った一つの形だったから。感情をちゃんと伝えられたり伝えたりできる関係を、もう一度きちんと作りたい。それが今後の目標。